美術家 Artist, Painter
佐藤 香 Kaori Sato
ARTWORK
北で生きてきた
制作時期:2023年8月
場所:京都府京都市 池田邸 土絵と本の家 図書館(常設)
▷作品経緯
「北で生きてきた」の制作は、千葉大学人文科学研究院名誉教授の池田忍先生と北海道で偶然に出会った事から始まりました。
この作品は、私が2019年6月頃に1ヶ月半程の期間をかけて北海道リサーチの旅に出た事から始まります。
あの頃の私は『なぜ、福島に原発ができたのだろう?』という問いから、福島の歴史について自分なりに調べる中、日本の北の文化を調べたいと考えるようになり、北海道リサーチの旅に出かけました。
そもそも「貧困とは、何をもって決定されるのだろうか」「そこの地域に住む人にアイデンティティがあり、長い目で見たその地の豊かさを知っていたら、貧困だと感じなかったのだろうか?」という観点から、約1500年前に東北が日本になる前の蝦夷の時代が気になる様になりました。
その時代は東北がまだ日本ではない時代で「その頃の東北のアイデンティティが残っていて、今失っている地域性を見直すヒントがあるではないか」と考えました。しかし、蝦夷の時代の記録は伝説では残っていますが明確な記録は残っていません。そこで気になったのが北に住むアイヌ民族でした。「現代の彼らの文化やアイデンティティは、どうなっているのだろうか?」との疑問が浮かんだと同時に、「アイヌ模様の着物」という漠然としたイメージしか知らない自分に気付きました。福島の地域性をより深く知る為には北に残るアイヌ民族のアイデンティティにヒントがあるのかもしれないと考え、北海道へ旅に出ました。リサーチでは、北海道大学の先生、天神山アートスタジオの方々など多くのアイヌ民族に関わる方々にご協力を頂きながら、アイヌ文化と北海道の歴史を学べる場所を巡りました。
道内を車中泊していた中、二風谷というアイヌの村にあるゲストハウスに偶然宿泊する事になり、池田忍さんに出会いました。北海道に来てから、私の事を知る方はもちろんおらず、作品を制作する目的もなく弾丸で来てしまったので、自分がアーティストだとも考えずに日々を過ごしていましたが、池田さんは以前私の作品を見たことがある方だと知り、盛り上がった一夜を過ごしました。とても嬉しい出会いでした。
▷北海道リサーチを作品にこめて。
リサーチで学んだ北海道の歴史は衝撃的でした。まず、北海道と呼ばれて150年という事を自分自身が意識した事がなかったですが、よく考えると短い歴史だと知りました。そしてそれは、150年前当時の戊辰戦争の影響もあり、全てではないですが東北からも多くの開拓者がいて、北海道の歴史は東北と深い繋がりがある事も理解しました。池田家も山形からの開拓者だという事でした。また今も残る日本からの開拓民とアイヌ民族との複雑な関係があり、生々しい人間の歴史を学ぶ事になり戸惑いました。「現代の彼らの文化やアイデンティティは、どうなっているのだろうか?」とう疑問を解決したくて北海道を訪れましたが、日本人もアイヌ民族もそれぞれの考えがあり、何が差別になるのか、どんな文化や血だとアイヌになるのか、など混乱しました。アイヌ民族の方々も一度壊された自分達の文化を、どう取り戻していけば良いのか、それぞれに模索していました。
北海道の旅を終え、4年ぶりのご連絡で池田さんに新築の家に壁画を制作するご依頼を頂き、正直驚きました。
絵のテーマは北海道リサーチの内容をテーマに描きたいと考えながら、池田さん出身の北海道・佐藤出身の福島・池田家が暮らす京都から土や灰を採取しました。約19種類の素材を集めました。
素材を探しながら“北”“雪”のイメージは表したいと決めていましたが、描き始めた当初、メインのモチーフが全く決まりませんでした。アイヌ民族に合わせて、アイヌにとって重要な動物であるフクロウや熊にしようかな?と思いましたが、私はアイヌではないので、描くのは何か違うと躊躇していました。では東北が蝦夷の時代のモチーフとは何だろう?という観点に至り考えてみましたが、明確な記録はないので、想像するしかありません。
結局決まらずに、京都にて絵の仕上げに向かう事になりました。池田家の近くには西本願寺の唐門があり「散歩してきたら?」と促されて何得なく見に行きましたが、やはり京都はお寺の大きさも装飾も東北ではお目にかかれない造りのものばかりです。唐門の立派な沢山の装飾を見たのが印象的でした。中でも鳳凰に目が行きました。鳳凰・不死鳥とは、数百年に一度炎に飛び込んで転生することで永遠に生きると言われている伝説上の鳥で、中国では縁起がいい霊獣とされ、京都にも多々モチーフとなった美術品があります。中国や日本でも西の威厳のイメージが強いですが、それを私は美しい装飾だと感じました。
東北が蝦夷だった時代は大昔で、その場所で生まれた現代の私は京都のお寺さんを見て日本を感じ、町屋の景色に感動したりとすっかり西から来た文化と自分が混ざったのだな、と実感しました。アイヌ民族も日本人が入り込んだ事により大きく変化した様に、例え不本意でも、どの国でも様々な民族や文化が混じり合って現在があるのだと、歴史を学ぶ事により自分自身も理解できました。北海道に行き、京都でこの絵を描くまで、私はどこかで福島としてのアイデンティティや、蝦夷のDNAにこだわりを持ち、その他を否定していました。不本意だった歴史はあれど、混じり合った上で現在があり、かつての異国の文化もしっかりと自分自身や福島の一部だという意識を持ちました。
その上で変化せずにその地に有り続ける文化は、その地の人々自身のアイデンティティの形成に繋がるのだと考えました。
不死鳥の事をもっと連想させると、転生や火のエネルギーを連想するモチーフでもあります。
その事から私は、不死鳥を原発・土地のエネルギーや再生の象徴のつもりでも描きました。雪に覆われながら、その中でひっそりと生まれる不死鳥のイメージです。膨大な時を超えて北の国の文化や信仰は変わりましたが、消える事はないアイデンティティは私の中にあり、アイヌや開拓者の先祖の池田さん、その他の方々の中にも存在します。
時に、新たな開拓の土地を求めて、原発事故や戦争によって故郷を無くしたとしても、その人の中に流れるアイディンティティは炎の様に消えることはない事を、北海道を経て京都の旅で学びました。
ダムの下で眠る部屋
半芸ハウス リノベーションプロジェクト
制作時期:2023年6月
場所:宮城県七ヶ宿町 半芸ハウス 2階の部屋(常設)
このお部屋の絵は、七ヶ宿ダムの底に沈んだ3つの集落を題材にし、その関連した地域から18種類の土や炭の素材で絵を描いています。
現在は町の象徴でもある七ヶ宿ダムは、今から約30年前に完成しました。このダムは、主に仙台市を中心に仙南地域の水道水として、または下流地域の洪水被害防止として大きな役割を担っています。ダム建設の話が出てから完成するまで約20年程の時間を有しました。七ヶ宿町では様々な人々の動きがありましたが、中でもダム建設による移転当事者の3つの集落「渡瀬宿・原宿・追見宿」に住んでいた人々は、苦渋の決断をしました。ダム建設の話し合いが始まって、約10年に渡り徐々に一軒一軒と居住移転をし、今のダムが出来上がりました。
この絵の制作にあたって、住居移転先で暮らす人のお宅を訪れ、当時の思い出や今の暮らしについて簡単なインタビューをし、その場所で土採取を行いました。その意図は、時代の流れと共に「無くならざるを得なかった故郷」を持つ人は、新しい地でどんな思いで暮らしているんだろう?という疑問と、当時の状況を知るためでした。
「故郷が無くなってしまう状況」は災害や戦争などの未曾有の出来事で、様々な人々が経験してきました。その状況から折り合いを付けて生きてきた先人達がいたからこそ、今の暮らしがあります。そんな人々が生きてきた証を少しでも記録として残しておく事が目的です。
採取した土の絵を見ながら、沢山の人の歴史が地層の様に折り重なり、または白石川の源流からダムに流れる水の様にそこで生きてきた人々の移ろいを感じて頂ければ嬉しいです。
絵の展示と共に、ダムに関わる方々にリサーチしたインタビューを本にまとめて展示しています。
本を読んで、さらに土のストーリーを感じてもらえたら嬉しいです。
ーダムに沈んだ集落の人を巡るー
白石市 古川家 祠の木下
いのちの木
制作時期:2023年3月
場所:福島県郡山市 かぐいけ坂の保育園 階段の踊り場(常設)
いのちの木は、「かぐいけ坂の保育園」ができる前のこの場所で受け継がれてきた自然と人のいのちの歩みをテーマにしています。
保育園があるこの香久池は、かつては香久山がありました。人の生活の変化と共に風景も変わりましたが、何億年前からそこには”土”がありました。新しい土地の”土”も含めて、いつでもみんなの歩みと共に存在してきました。そんなストーリーを持った11種類の土で、この絵は描かれています。
保育園を建ててくれた土屋病院の土屋家の※おじいさんは昔、材木商を営んでいて郡山の土地をいくつか所有し、ここに生えていた沢山の木を販売していました。やがてそこに病院を建てることになり、この保育園もその上に建っています。またここの木は、誰かの家になったり薪や桶になったり、その時代のみんなの生活を支えました。
ここの保育園に集まる未来明るい子供たちには、ここでおきた昔の事は現在や未来に続いていることを感じてもらうきっかけとして、この場所にかつて生えていた木をイメージしました。根っこが昔の人の歩みの様にどっしりと茂り立ち、天に向かって大きな木の枝の様に伸び伸びと育ってくれることを願っています。
※ 土屋繁八 氏(医療法人慈繁会創始者 土屋繁一の父)
山で生きている あいづまちなかアートプロジェクト2022
開催日:2022年10月8日ー11月5日
素材:空間▷湊中学生が集めた湊の素材を炭焼きで焼いた炭
絵▷ススキを編んだスゴ編みの上に炭・湊の土
水溶性樹脂、麻紐
場所:野口英世青春広場(福島県会津若松市)
この作品は、会津若松市湊地区が題材になっています。この地域では炭焼きの生業がまだ残っている地域です。湊中学校の生徒さんと炭焼きを共に学び、インスピレーションを頂きました。
湊中学校でのwsでテーマとした湊の民話で「恋ヶ崎伝説」があります。この話の中では、病になった姫が山の庵に隔離され機織りをした話が出てきます。話の中では、山に干していた機織りした布を村民が大蛇に見間違い、大事件に発展しました。滞在制作では、その姫の様にススキを織り、作品を広げてきました。
そのススキ織り制作に欠かせなかったのは、今も炭焼きを続ける職人の佐藤春義はるよしさんです。湊の炭焼きと共に、スゴ編みというススキで作った炭俵を作れる方で、炭を出荷する際に重要な技術でした。今回制作にあたりスゴ編みのご指導を頂きました。これが絵のチャンパスになっています。スゴ編みは、炭の出荷にはもう使われてはいませんが、技術は残っています。
また、空間にぶら下がっている野菜や木の実の炭は、中学生が集めてくてた湊の素材を炭にしました。よく見ると、まつぼっくりや蓮根など形がしっかり残っています。
湊のススキのスゴ編みに描いた炭と土の絵の空間を見て、民話に出てくる山に暮らす姫、山の中の集落でひっそりと受け継ぎ暮らしてきた先人達が見てきた風景を想像して製作しました。
この地の恵み
制作時期:2022年8月
場所:福島県楢葉町 古民家の店舗(常設)
見出し h1
この絵は、福島県楢葉町の古民家周辺に存在するものをここの場所の土で描きました。絵の左にある古墳の絵は双葉町の「清戸迫横穴」です。古墳の渦巻きを基盤に、川、海、第二原発などにグルグルとエネルギーが派生しているイメージの絵画です。
古代から現代までの、この地とここで生きる人の営みによって作られた恵みを絵にしました。
小さく広野町の恐竜や白鳥、ダム、古代の人がサーフィンしていたりなど、絵の中に描いてある物をじっくりと探して頂ければまた楽しいかもしれません。
この絵を背景に炉端焼きを楽しんで頂ければ嬉しいです。
見
プロジェクト
たくさんの神さまのお引越しー飯館村から北海道へー
制作時期:2022年3月
作品数:5点
コンセプト:作家佐藤香は、土を絵の具の代わりにして絵を描いています。絵具の代わりといっても、その土地で採取する事を大切にして制作しています。震災の際に実家の土を選んだ事から土を使う事が始まりましたが、なぜ自分が土を選んだか明確に説明できずにずっとモヤモヤしていました。そんな中、2年前から飯館村の方々との関わりでそれが明確になるきっかけがありました。
避難し北海道に移住した16代続く畜産農家の菅野義樹さんに出会い、話の中で「北海道から帰省するたびにたくさんの神さまが迎えてくれて、それが心から安堵する」という話が印象に残っていました。彼は、日々の暮らしに見える自然風景に先祖をみる、という感覚をもっていて、農作業の合間に見る空や山から先祖を感じ見守られて生きています。「先祖などの存在はお盆や正月に逢いにくるが、それ以外にも常に対話して存在を近くに感じ続けて、思いを寄せ続けている存在」という民俗学者の柳田国男の言葉が彼の感覚をわかり易く表現してくれています。「この感覚を持ち暮らす人が、自分の意図に反して突然慣れ浸しんだ土地から引きはがされると、言葉にできない喪失感を抱く。例えば原発事故による避難の様な強制的移動は、曖昧な喪失感を抱きやすいのではないか」と義樹さんは教えてくれました。ただ住む場所を奪われたのではなく、先祖を含めたその人の生きてきた証が脅かされる事態だったと私は学びました。
飯館村には、生活圏に小さな祠がいくつも存在します。なぜ山や道に祠があるのか?それは、そこに住む人の先祖を感じる感覚が関係しています。義樹さんの「たくさんの神さま」は、先祖と自分が生きてきた証を具現化した一部なのだと対話の中で学びました。
避難当初彼は、故郷に居てこそ先祖を感じる事ができると思って苦しんでいましたが、10年の月日の中で離れていても感じる事ができることに気づきました。その話を聞く中で、更に遠方でも故郷を感じやすくする為の作品を制作する事を思いつきました。義樹さんと飯館で暮らす父の義人さんから案内を受けた「たくさんの神さま」と菅野家のエピソードからイメージし、この土地の素材でつくった作品を、北海道の菅野家まで届けるというプロジェクトです。北海道は、明治維新の際に全国からの開拓民が建てた分社が至る所にあります。故郷を感じる存在を遠方に行っても身近に感じる何かを作ることは昔から何処でも行われて来たことで、この作品も分社・分祠の考え方と類似しています。その意味は、本人だけでなく故郷を知らない子孫にも身近に感じやすくし、世代を超えて自分自身が何処から来た何者であるかを認識してもらう目的があるのだと考えています。
義樹さんとの対話で、私自身も土を選んで絵を描いた理由は、自分自身の土地や先祖を表現したかったと気づくきっかけになりました。誰もが抱えやすい曖昧な喪失感、自分が何を失ったのかをなかなか理解することは難しいですが、誰かを知る中で自分を理解する貴重な経験でした。またこの作品で10年間の義樹さんの変化を観て、それを観た福島の人の10年間を共有できる作品にしたいと考え制作しました。
いつかの誰かの為に
たくさんの神さまのお引越しー飯館村から北海道へー
制作時期:2022年3月
素材:菅野家のライ麦畑の石、土
エピソード:
義樹さんのおじいちゃんが新たに山を切り開いて牧草にした場所がある。震災後汚染されたその場所を改めて父の義人さんが手を入れている。今は土地の栄養づくりの為に、ライ麦を植えている。小高い山にある畑からは、広大な山山が見え、その先に福島第一原発がある。
畑からは大量の石がでてくるが、それを除去するのが土地づくりにとって大事な作業なのだと義人さんは言い、コツコツ取り除く。想像しただけで大変な作業だが「誰かがやらないと始まらない」との想いで土地を耕す。
かつて天保の飢饉の時代、飯館でも沢山の犠牲者を出し土地を去る者が多い中、奇跡的に菅野家は乗り切った。「その時代に比べれば、原発で命を取られたわけではないし、大したことではない」と義人さんはよく話してくれる。
いつかその土地を使うかもしれない誰かの為にコツコツと耕している。
「先祖が生きてきた証」
素材:愛宕神社の植物を野焼きした粘土板、野焼きの炭、愛宕神社の土
エピソード:
愛宕神社は、巨石が奉られている神社で火を司る神であり、戦の神。蝦夷に関わる神社ではないか、と父の義人さんに教わる。
蝦夷とは、1500年以前にまだ日本の干渉を受けていない地域民族のこと。東北統一の為に田村麻呂の制圧があり、同化していった歴史がある。
義人さんの話の中で、菅野家に保管されている甲冑を見せてもらった。戊辰戦争の際に先祖が新調したものだ。その頃、東北・飯舘町の主流は刀で戦う事であった。しかし、攻めてくる敵は鉄砲や大砲を使う時代。勝てる訳がない戦がこの時代でも起こっていた。
この2つの話から、東北の先祖が歩んできた形跡を感じた。
どちらも制圧された歴史なので負の歴史かもしれないが、それでも繋いでこれた先祖の歩みを読み解ける話である。
今回はその甲冑の型をモチーフにした。また火を司る神様にあやかり、粘土板に押し付けた植物を野焼きすることで、この場所を記録として閉じ込めた素材を使っている。
かつての先祖がこの土地で踏ん張り、生きてきた証は、東北・飯舘の愛しい歴史の一つである。
見
「受け継ぐとは?」
制作時期:2022年3月
素材:菅野家裏の牧草
エピソード:
菅野家の牧草地が家のすぐ裏にある。
震災が起こり、除染作業の中で今までの土をそっくり入れ替えられた。放射線量は減ったが、栄養が全くなくなった土地を帰還してから父の義人さんはコツコツと土づくりから始めた。そこから生えてきた牧草は見事に青々としている。その牧草で義人さんは「自分はもう畜産をやらないけれど、いつか誰かがその土地を使うかもしれない」との想いで今日も土地改良に励む。
義樹さんの奥さんの話が心に残っている。
「その土地に住んでいなくても、その土地の命を受け継いでいる」と話す。
震災が起きた時、奥さんの美枝子さんのお腹には赤ちゃんがいた。どこの土地にいるかを悩みながら避難し北海道に移住し、無事に出産した。飯舘には今はまだ住めないが、そこの人達の遺伝子を確実に受け継いでいる。
土地との繋がりは、そこに住むということだけではなく遺伝子を受け継ぐという選択の中にもある。
土地との繋がりとは、そこに住み続けるのも離れていても存在するものである。
出し h1
福島から北海道へお引越し風景
北海道に無事お引越し完了
EATH SCAPE-地脈の蠢き- 2018.8
場所:西会津国際芸術村
現地で採取した土を画材に、世界を凝縮した密度の高い絵を描く佐藤香は、
その土地の土を使う事により、その地が発しているであろう”蠢き”を表現している。
今回の展示では、サウンドクリエーター大岡真一郎が採集した西会津の水音と共に、作者がこれまでに描いてきた各地の作品と、西会津で制作された新作を連続した空間として構成している。
作品同士の共振は、作者が西会津の集落で感じた、古来からの生活領域であるムラから、ノラを経て、生命の源泉であるヤマ、そしてその胎内へと向かう空間の関係性であるとともに、その共振は、会場である西会津国際芸術村に集まる多様な “余所者” が生み出す西会津との共振でもある。
イベント「都路をゆく」2018.3 空間演出担当
素材:田村市都路町の木、土、茅、藁、蔓(背景作品:「私の故郷、福島」2012.)
場所:ふくしま中央森林組合都路事業所 旧オガ工場
コンセプト:
田村市都路町はシイタケ原木栽培を主とした広葉樹が広がる里山の風景が残っている地域です。しかし、震災による原発事故の影響で環境や山の在り方が大きく変わりました。そんな中「みんなで都路町を見つめ直していく」という企画者のコンセプトの元、地元の方に協力を依頼し、地元の木材で椅子、オブジェ、床にはウッドチップを敷き、里山の森のお話会のイメージで空間を作り、座布団からステージまで里山の素材で空間を作りました。ステージでは講談師の神田陽子師匠の民話などの講談が披露されました。
主催:都路町観光協会
共催:ふくしま中央森林組合都路事業所、田村市復興応援隊
後援:田村市、都路町商工会
生まれる、または還る 2017.12 「都路観光マップ」にて
素材:杉板に都路周辺の土、藁、墨、キジ
サイズ:4m×2m
場所:福島中央森林組合都路町事業所 旧オガ工場
コンセプト:
福島県田村市都路町は震災の原発事故の影響で、一時避難範囲に入った地域です。1017年現在では、震災前の生活を取り戻しているように見えますが変わってしまった生活や価値はなかなか取り戻すことはできません。
根源 2017.10「木曽平沢 漆器まつり」にて
素材:不織布に木曽周辺の土、漆の木、陶器、漆
サイズ:2m×15m
場所:アートスペース二四重(長野県塩尻市)
コンセプト:
この絵は木曽平沢の土と漆に関係がある土、漆の木を使って制作しています。橋戸や近所の神社から、漆で使うサビ土や漆の畑とその周辺の土などです。
作品を制作するにあたり、木曽平沢にも縄文土器が発掘されたことを知ったことからテーマを根源にしました。樹液がついたままの漆の木と掻いた後の木片、文明の根源である縄文の土器が発掘された場所の土など、根源を感じる素材を使っています。
また、ワークショップで制作した野焼きの土のお面に木曽平沢の人々が漆で描いた縄文人の顔が土の絵と共に展示されています。お面の表情は髭がある人、目つきが鋭い人、かわいい模様がある人みんな違う顔をしています。縄文人のようであり、描いた現代人そのままを映しているようであり。古代も現代も変わらない顔をしているのかもしれません。
絵具になる前の土、漆製品になる前の漆の木、古代人のような顔、生々しい素材の絵の中で大昔を思い起こし、現代の木曽平沢の風景とリンクするような作品です。
只、そこにあるだけ 2016.10「富士の山ビエンナーレ」にて
素材:麻布に福島の土、水溶性樹脂
サイズ:4m×3m、2m×3m
場所:旧常盤邸(静岡県富士市)
撮影:松尾宇人
コンセプト:富士市は日本を代表する富士山の麓にあります。富士山は一つしかないけど、日本全国には「ふるさと富士」といものがいくつも存在します。私の故郷の福島にも勿論あり、この絵は福島の富士山の土で描いています。大きな絵は会津磐梯山(会津富士)と吾妻小富士、小さい絵は出身地の片曽山(田村富士)。どの山も只そこにあっただけですが、眺める人の心が遠い富士山を思い起こさせたのでしょう。遥々、福島から土を運び、遠い静岡で描きました。
小さいシリーズ 2016.8
素材:茅に土、水溶性樹脂(一部、和紙に土)
サイズ:それぞれ60cm以内
モデル展示:星画廊(福島県喜多方市)
獣シリーズ 2016.2 「半農半芸プロジェクト」にて
素材:麻布に茨城県取手市の土、水溶性樹脂
サイズ:それぞれ約2m×3m
場所:上野駅通路のショーウィンドー、3331(東京都秋葉原)
月夜乱舞 2015.11「アートいちはら 秋」にて
素材:和紙に千葉県市原市の土、水溶性樹脂
サイズ:2.5m×18m
場所:あそうばらの谷(千葉県市原市)
コンセプト:
あそうばらの谷とう家の回りは民家や明かりがあまりなく、目の前の原っぱには猪が泥遊びをしている跡がありました。その泥を使い、秋の月夜の光に浮かび上がる動物、植物などの生命の高揚感を描いています。
原子へと続く道 2015.8「大地の芸術祭」にて
素材:和紙に新潟県十日町下条地区の土、水溶性樹脂
サイズ:約5m×18m
場所:もぐらの館(新潟県十日町市)
撮影:石塚元太良
コンセプト:
十日町市下条地区の約14種類の土で描いています。
豊かな土の色が取れるこの地域は、同時に風景の豊かさを感じます。元小学校の階段踊り場という独特な場所を利用して一つの生命の体の中を通る絵にしました。足元からエネルギーがあふれ出し階段を上がるごとに色が灰色になり、やがて枯れていくような。一つの生命の一生を体現する作品です。
生まれる、または還る 2014.8「全ての場所が世界の真ん中1/100,000妻有」にて
素材:不織布に十日町下条地区の土、水溶性樹脂
サイズ:8m×4m
場所:キナーレ(新潟県十日町市)
コンセプト:
新潟のこの地域の土はとにかく美しい。生命を感じさせる色合いに触発されて、描いたのは母のお腹に眠る胎児のイメージでした。真っ赤に燃える土の色は、生命を宿したばかりのエネルギーを感じました。
蠢く闇 2014.6「手作り本仕込みゲイジュツ」にて
素材:和紙に福島県猪苗代町の土、水溶性樹脂
サイズ:約3m×15m
場所:はじまりの美術館(福島県猪苗代町)
コンセプト:
夜桜を目にすると、桜の妖艶さと空気に蠢く何かを感じます。何かとは何か?闇に紛れる蠢く生命を土の存在感によって捕らえたいと思い描きました。
山々の眠り 2013.10「風と土の芸術祭」にて
素材:不織布に福島県会津美里町の土、水溶性樹脂
サイズ:1.8m×15m
場所:元荒池スーパー(福島県会津美里町)
コンセプト:
会津美里町本郷の14か所から採取した土を使い描いています。
陶芸の町であるこの場所は、山から取れる土も鉱物のような白い色が多く、床に使用した土も陶芸になる土で描いています。本郷からみる山々は、浮世絵のように重なり合いとても穏やかに眠っているようでした。陶器の根源の土がそこにあるのかと思うと、なんだか安心します。
蠢きだす鼓動 2013.8「原始感覚美術祭」にて
素材:木崎湖周辺を主とした大町市の土、水溶性樹脂
サイズ:8畳の畳の部屋、側面と天井部
場所:まれびとの家(長野県大町市)
コンセプト:
主に木崎湖周辺の大町市内13か所から採取した土を使用しています。
採取した土の中には30万年前や100万年前に蓄積されたモノもあります。そんな土に触れていると世界の成り立ちがわかった気がしてきます。世界はいつだってグロテスクで美しい渦の中にあり、その始まりはいつも母のお腹で眠る胎児のように渦をまいているような。千年後もきっとそれは変わらないままなのでしょう。
花々の夢 2014.12「新・喜多方美術倶楽部 喜多方で学ぶ北の魅力」にて
素材:土壁に漆喰と喜多方の土、板壁に喜多方の土と水溶性樹脂
サイズ:12畳ほどの土蔵
場所:絵本の蔵(福島県喜多方市)
コンセプト:
「絵本の蔵」は地域の人々が集まり、本を読んだり談笑するための場所です。子供たちが集まる蔵に、絵本の中に入ったような空間をつくりました。花々は、植物の様であり動物の様であり。古代からの言い伝えを想像するような絵です。
宴 2012.10「会津・漆の芸術祭」にて
素材:和紙に福島県喜多方市の土、漆、水溶性樹脂
サイズ:10m×3m
場所:蔵の里(福島県喜多方市)
撮影:篠原誠司
コンセプト:
福島県喜多方市の各所で採取した土と産地である漆で描いています。江戸時代に建てられた茅葺き屋根の家の中に漆の器と共に展示しました。
モノが生まれる宴の席に捧げる供物であり、モノが形を失ってから還る循環の場所。そこは人も漆もみんな同じ渦の中にあり、強烈なエネルギーを放ち蠢いているのだということを表現しています。
個展「すべては渦の中にある」2012.4「pepper’s Gallery」(銀座)にて
作品:私の故郷、福島
私の故郷、福島 2012.3「東京藝術大学院卒業展」にて
素材:和紙に福島県田村市の土、水溶性樹脂
サイズ:10m×4m
場所:東京藝術大学
コンセプト:
この作品に使用した土は、私の故郷の福島県田村市にある実家周辺の土です。福島第一原子力発電所からは40kmです。
震災の時に、私の故郷のモノは検査しなければ安全なモノなのかわからなくなり、価値観が変わった瞬間をみんなが感じた出来事でした。この展示で福島の土を使用した理由は、観る人を怖がらせたり危険に晒したりしたいわけではなく、ただの故郷自慢のようなものです。私の故郷は美しいまま、たとえ汚染されようと。それだけは変わらない真実だということを見てほしいと思い絵を描きました。
Subject: My hometown, Fukushima 2012.3
"Tokyo National University of the Art of Graduation Exhibition"
Material: Soil of Tamura City, (Fukushima),Washi, water-soluble resin
Size: 10m × 4m
Place: Tokyo University of the Arts
concept:
My hometown,Sangouuchieria,Funehiki town,Tamura city,Fukushima,Japan.
All the soil I used to make this work is found within 200m from my family home,which is 40 km from Fukushima nuclear power plant.
After that day (2011.3.11),everything had to be checked for its level of radiation. I did not know what to believe anymore and what people valued suddenly became unclear.
This exhibition concerns itself not with fear of radiation nor issues of nuclear power but rather about my love for my hometown.
My hometown is still beautiful even though it has been contaminated by radiation.It is because of this beauty that I have created these paintings.